2008年08月25日

安彦良和氏 講演『70年代のアニメとガンダム』 広島市立大学公開講座 広島アニメーションアカデミー2008 Vol.4  広島アニメーションビエンナーレ2008

 8月3日(日) 広島市立大学公開講座 広島アニメーションアカデミー2008は、講師に漫画家 安彦良和さんを迎えてお送りしました。大勢のファンのみなさんを前に、安彦先生はこれまでの創作活動を振り返り、当時のエピソードや作品に込められた想いを明かしてくれました。そのお話からいくつかご紹介します。



◆「こともあろうに昔やった『ガンダム』を漫画で描き直すことに」

 70年代というのは、何のあてもなく東京に出てきて、それから『機動戦士ガンダム(=1979年)』を放映するまでの10年、80年代はガンダム以降のアニメ制作の10年、90年代はひたすら漫画を描いている漫画家稼業の10年。そう考えると、なにか××年代という10年刻みが、自分の人生の節目節目に不思議と合致すると気づきました。それで2000年代には、自分は何をするのだろうって思っていたら、こともあろうに昔やった『ガンダム』を漫画で描き直すことを始める。3年ぐらいで終わると思っていたら、どうも10年ぐらいかかると。何のことはない、この10年はガンダム描き直しの10年だったのかと思ったら愕然としたんですけれど…。



◆「全く好きじゃない。好きだと思ったことは一度もない」

 虫プロの先輩で、尊敬する杉井ギサブローさんが昔、ある雑誌で、やはり尊敬する富野由悠季さんと対談をされていて、手塚治虫さんについて面白い話題が出ているのを読んだことがあります。手塚さんが『鉄腕アトム』を納品に間に合わせるため、余りのフィルムを継ぎ接ぎ編集して作ったという神話として語られるエピソードがあるのですが、手塚さんはアニメがお好きだったのだろうか、ほんとはアニメなんて好きじゃなかたんじゃないかと。僕も同感だと思って読んだのを覚えています。アニメが好きじゃないことをいけないといっているのでなく、白状しますけれど、僕もアニメーションは全く好きじゃない。好きだと思ったことは一度もない。ですから、むしろ共感を込めていうのです。



◆「叱られたんです。趣味が悪いと」

 僕がキャラクターデザインを務めて、富野喜幸(現=由悠季)さんが監督をした『勇者ライディーン(=1975年)』という作品があります。3本目が放映されたころ、NETテレビ(現=テレビ朝日)の担当プロデューサーに、富野さんと一緒に呼ばれたんです。何かごちそうでもしてくれるのかなと思って行ったら、叱られたんです。「趣味が悪い」と(笑)「ウチは六本木のテレビ局ですよ、何とかしてください!」って。僕はこう見えても気が短いものですから「何ともなりません!!」って(笑)。憤然として会社のスタジオに戻ると、富野さんが突然何かを始めるわけです。次回放映のフィルムを切り刻んで、いろいろ寄せ集め、再編集するんです。まさに手塚さんの神話と似たものがあると思ったのです。その様子は、鬼気迫る感じで、この人は凄いことをする人だと。この情景はずっと忘れないと思います。



◆「ヤマトが70年代のアニメを大きく変えた」

 1974年に非常にエポックメイキングな作品が出てきます。一つは高畑勲さん、宮ア駿さんの『アルプスの少女ハイジ』です。これはその後、高畑・宮アラインの大きな流れとなっていく。もう一つは西崎義展さんの『宇宙戦艦ヤマト』です。僕はこの作品で絵コンテを担当することになるのですが、僕にとって大きな経験になったのと同時に、『ヤマト』がアニメ業界を大きく変えたということも軽視されてはならないと思います。それは『ヤマト』がいわゆるヤングアダルトと呼ばれる新しいファン層を開拓したことです。実は『ライディーン』の現場でもその兆しを感じていて、それをファン層として掘り起こしたのが『ヤマト』だったのです。『ヤマト』が一定の成功を収めたことで、いろんな人が、違うターゲットに向けた作品作りも許されるのだという考えを持ったんですね。そんななか70年代最後に『ガンダム』を作ることになるんです。



◆「偉大なるオタクの先駆けかもしれない」

 80年代に入って高畑・宮アラインの作品が不動のものになっていく。同業者として非常に宮アアニメに傾倒したのは、演出が趣味的なんですね。例えば『ルパン三世』の宮アさん絵コンテ・演出の話数で、戦車が大砲を撃つシーン。砲弾が光る点になって飛んでいって、離れたビルに着弾するまでを、カットを分けずに、実際の時間経過で表現する。こんな見せ方があるのかと。ほかにもいろんな例はあるのですが、僕が一番焼き付いたシーンです。非常にマニアックな表現で、これに対して同業者もイカれたし、いわゆるその後、名づけられるオタク的な連中も魅了されたわけですね。そういう意味において、宮ア駿さんこそ偉大なるオタクの先駆けであるかもしれないと思います。



◆「なぜ、あの時言ってくれなかったのか」

 宮ア駿さんの『未来少年コナン』は全26本すべてが高いクオリティで作られていて、当時、こんな仕事がしたいと憧れていました。それで、『ガンダム』が終わったあと、全話数の作画監督を僕がやるということで、わがままを言って作らせてもらったのが『巨神ゴーグ(=1984年)』です。絵描きとして、できる限りのことをして、かなり思い入れもあったのですが、これがまったくウケなかった。非常に大きなショックでした。もうこれ以上のものはできないと。それで1989年にアニメをやめるんですけど、その間の僕の作品は、例えば、将棋でいうところの投了する前の形作りだったのではないかと思います。最近になって、「『ゴーグ』好きでした!」という方がけっこういらして、なぜ、あの時言ってくれなかったのかと思うのですけど(笑)。



◆「不自由さのなかで、いろいろなことにチャレンジをしていた」

 『機動戦士ガンダム』で一番印象に残る話数は、最初のシリーズの13話『再会、母よ…』です。母と青春期の息子との子別れの話なんですが、そのことをこの20分間に、スポンサーの制約とか、時間の制約とか、ロボットアニメという作り上の制約とか、いろんな制約のなかで、奇跡的に上手くまとめているのではないかと思います。当時、絵コンテを受け取ったとき、今風に言えば”鳥肌がたった”記憶があります。作家たちが、同じような制約のなか、もちろん技術的な制約も含めて、不自由さのなかで、いろいろなことにチャレンジをしていた、そういう時代が70年代だったんじゃないかと思います。



◆「その時、初めて当時のシナリオを読んだのです」

 「ファーストガンダム」で一番多くの話数の脚本を書かれているのが星山博之さんです。星山さんは、去年お亡くなりになる前、ご自身の著書の中で一番印象に残る仕事として13話『再会、母よ…』を挙げてらして、そのシナリオの載録をしています。僕はその本で初めて当時のシナリオを読んだのです。すると、完成作品と、もちろん骨格は同じなんですけど、かなり違う。作品はシナリオより圧倒的によくなっていると思うのです。つまり演出が優れているということです。星山さんは、敢えてご自身の著書にシナリオを載録して、当時の演出が非常に優れていることを立証したのです。では誰が実際に演出したかというと監督の富野喜幸(現=由悠季)さんです。『ガンダム』を漫画にリライトする作業のなかで、『ガンダム』という作品における星山博之というライターのウエイトは非常に大きかったことに今更ながら気づいたのですが、同時に、はからずも当時のシナリオを見ることで富野由悠季という演出家の力量を、20数年経ってあらためて知ることにもなったのです。




◆「富野さんの最高のコンディションがこの時代だった」

 13話『再会、母よ…』のラストシーンに、絵コンテを見た人にしかわからない演出があります。絵コンテを見ないとわからない演出というのは実はいけないと思うのですが、この時、富野さんは、ある種の“禁じ手”を犯して映像を見ただけでは多分気付かない演出をしている。このあといろんな人たちがこの手法を真似ていきます…これはその先駆けだと思いますが…。それはどんな演出かというと、アムロのお母さんの向こうに止まっている車の運転席に中年の男が座っているのです。富野さんはここで、母と子の別れのシーンにひとつの現実を突きつけている。その象徴がお母さんを待つ車の男の存在なのです。ある種の残酷なリアリズムがありますが、残酷なだけでなく非常にあたたかさを感じて、このラストシーンは大好きです。僕は富野由悠季という作家の、最高のコンディションが「ファーストガンダム」のこの時代だったと思うのです。



◆「作家たちもついつい自分を見失ってしまった」

 80年代は、70年代がゆがんで継承されていくんですね。作り手がメディアとのなれあいのなかで、一見わからない演出上のからくりみたいな、いわゆる“禁じ手”を堂々と犯してゆくような時代が80年代にやってきます。「メイキングを見なさい!見るべきだ!!」そういう作り手の中に非常に尊大な態度が現れる。70年代は『ヤマト』、『ガンダム』があり、あるいは『宮アアニメ』が台頭してきたといっても、メディアが作り手たちに目を向けるということはなかった。そのなかでも「誰も見てくれなくてもいいよ!オレたちはいろいろ想いを込めて作るんだ!!」という風にやっていた。80年代あらたに、メディアが作り手の方に注目するようになり、そのなかで作家たちもついつい自分を見失ってしまうということがあったと思うんです。



◆「70年代に発生した妙なかたまりこそが、アニメブームだった」

 懐かしのアニメみたいな番組があって、『巨人の星』とか、『あしたのジョー』とか、あの頃はアニメブームだったとよく言われるんだけれど、これはマンガ文化に乗った人気でしかない。アニメブームというのは、厳密に言うとアニメが一つの表現ジャンルとして自己主張しはじめ、それに対しトレンドウォッチャー的な、例えば女子大生とかそういう人たちが目を向け、話題にし、面白さにチェックを入れはじめる。そこに発生した一つのムーブメントがアニメブームというのです。ひとつの新しい文化の形態の発祥としては、70年代に発生した妙なかたまりこそが、アニメブームだったのだと。その起点になったのは、非常につたないけれど、表現者たちの想いが詰まった、大人げないぐらい本音をしのばせた『ヤマト』や『ガンダム』のような営みだったのだと思います。そういう非常にユニークな10年として70年代があり、それがたまたま僕のアニメ人生の前半と重なったわけです。



 最後に、会場のファンから、次の10年について聞かれ、安彦先生は「2作、3作と書きたい」と、現在連載中の漫画『機動戦士ガンダムTHE ORIGIN』以降の新作への抱負も語ってくださいました。会場の質問にも、ひとつひとつ丁寧にお答えしてくださる安彦先生のあたたかいお人柄にも触れることができ、ファンにとっては至福の時間となりました。
安彦先生、ファンの皆さま、本当にありがとうございました。


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70年代を振り返る安彦良和先生






posted by 広島アニメーションビエンナーレ実行委員会 at 12:48| Comment(0) | トピック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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